
クリスマス絵本を贈ります
池をのぞき込んだだけであんなに大急ぎでやってきた亀達が、ぼんやりと水の底であくびをしたり考え事をしたりするようになると、みくま幼稚園にも冬の到来です。ウサギ達はいつのまにかモフモフとあたたかな密毛(みつもう)であたたかそうな毛皮に着替え、アヒル達は元気に冷たい水の中ではしゃぎます。子ども達は元気な歓声をあげて、仲間同士の中でのやりとりを楽しみ、自分がすでにこのコミュニティの中で、しっかりと市民権を得て、自分たちがこの社会を運営している事を意識できています。これからが冬から春にかけての学びの時期と言えましょう。
みくま幼稚園では、子ども達へクリスマスのプレゼントとして「クリスマス絵本のプレゼント」をしています。PTAの厚生部さん主催のみくまバザーの売り上げの補助をいただいて、子ども達へのプレゼントです。でも、私は、これはお母さん達への贈り物だと思っています。
毎日、毎朝、子ども達を私たちのもとへ送り出してくださるお母さんたち、親であれば子どもの愚痴や話をきいておれば、様々な思いが胸にはあるお母さん達が、それでも幼稚園に行っておいで、今日は昨日よりきっといいことあるかもよ、と子どもの背中にそっと手を添えて送り出してくださる。それは当たり前にできそうで、当たり前にはできないことだと私は思っているのです。親であれば、小さな子どもを育てているお母ちゃんであれば、私であっても同じ事をする、私だってそうしてきた、そんな思いで自分より年若いお母さんたちに向き合うようになれるのは、自分が少しずつ本当の大人になってきた手応えを感じ始めたからかもしれません。
絵本には人生で三度の出会いがあります。
幼い日に子どもとして親に読んでもらう絵本、大きくなった後に自らが一人の人としてもう一度手に取ってよんでみる絵本、そして幼い子どものために親として読んでやる絵本。
みくま幼稚園を選んでくださったお母ちゃん達、一生懸命に小さな子どもを育てているお母ちゃん達に心よりお礼を申し上げます。そして、クリスマスの祈りをこめて、みくま幼稚園より一冊の絵本をお贈りいたします。どうぞ、お楽しみに。

感覚の話・「みる」ということ
こどもをみる、ということはどういうことかとよく考えます。みくま幼稚園は子どもをよくみてくれる幼稚園だとほめていただくことがあります。たいへんうれしい言葉です。親がいう「よくみてくれる」とはどういうことなのでしょうか。私たちこどもを預かる現場の者たちにとっての「子ども達一人一人をよくみる」とはどういうことなのでしょうか。
先日、私のお稽古ごとの師匠4人が4人とも、打ち合わせもしないのにその話を私にしました。だいたいこの4人は私ともども地球上に数少ない同種族の人間なので、まあ、なんとなくいつも何の接点もないのに、各々のお稽古日に私に共通の話をなさいます。かわるがわる人が交代して私に同じ事を言いにくる、まあ、私にしてみるとそんな感じです。ああ今週の御題はこれか、みたいな。
その人の内面や内心、本当の気持ちや本来の姿、そんなものを感じ取るための「みる」でありたい。目にはみえないたくさんのつながりを調整したり、修正したり、補強したり、満たしてゆく、子ども達の営む小さな社会をそんなふうに「みまもりたい」と願います。
私たちはみくま幼稚園において「こどもをみる」ということは「こどもの感触をとる」ことに始まると伝えます。まあ、たいていの職員採用の場合では、採用希望者は目を丸くして「かんしょくをとる?」とおうむ返しにききかえして、なんだか変なことになりゃしないか、この人は大丈夫か、と私は目の前で私に対して相手が不安と警戒心ありありといだく姿を毎度みております。
姿形に現れるものに惑わされず、本質をみる、本音や本来のものをみる、言葉や理解力、コミュニケーションの力がまだまだ未熟な段階のこども達を教育してゆく、ともに育ち合い、ともに一つの小さな社会を作り上げようとする作業が「保育」とすれば、保育を行う保育者の姿の本質はそこにあります。保育現場に置いて専門職、プロフェッションといわれるものにはそれが備わってしかるべきだと私は考えています。それは目に見えない力なのですが、私たちにはまったくすべてそれは生まれつき備わっており、専門職としてトレーニングや修練を積んで身につけてゆきます。そしてそのための懸命な努力は、あきらかに目に見える姿形となってこども達の姿に現れます。
私たちは「目」で見ます。そして「心眼」といわれる心の目をもっています。こどもをみつめるまなざしは、「どちらもあってはじめて一つ」と私は信じているのです。その感覚をいつも鋭敏にすましていること、それがみくま幼稚園の保育現場で私がとても大切にしていることです。

子育てで渡る川
私は今、自分の感覚を知り、学び、成長させるために少々風変わりなお稽古事を様々しています。師匠を探し出すため、やみくもに様々な人に会いに出かけていきます。子育てをしているときには、とてもそんな時間も行動もできませんでした。子どもの世話と家庭のきりもりに追われ、仕事と家族の両立に全力疾走していました。子育てというものを相手に格闘していた時代といえるでしょう。
その時代、私はまさしく一戦一生の気持ちで、手当り次第に対戦していたような気がします。勝って気が済む、負けて引きずるのくりかえし。一喜一憂とはこのことです。その道中で、たくさんのものを取り落としました。あれは仕方がなかったのさとあきらめがついたものも、痛恨のエラーとして今もとげがささったままのものも、快挙として胸に残るものも様々ありました。仕事との両立だったから、子育てをしていたから、苦しい時代だったから、原因はいろいろあったでしょう。でも、今、当時の自分を悔やむ事なく、きちんと向き合ってかえり見て言える事は、「原因はきっかけにすぎなかった」ということです。そして「その時の結果は、その時の実力であったのだ」ということです。
原因と呼ばれる事を探し当てる事は大事かもしれません、でも原因はただのきっかけであり、原因と思い込む出来事の一つにすぎません。その出来事に起因する仕組みがあることに気がついた今、あの時、躍起になって引き起こされた様々な出来事の思い出が、今の自分を支えている事に気がつきます。あれは今日、このための、たくさんの星のなかの一つだったのだな、星座をようやく見る事が出来る今になり、ようやくそれがわかります。
生まれて初めて我が子を育てるお母ちゃんが、生まれてはじめての局面に出会う、生まれて初めての判断を強いられるお母ちゃんが、夜も眠らず考え抜いてだした判断の内容は、だいたいまちがってはおりません。それはそうしたたくさんの格闘にむきあって、数こなしてきた人間ならわかること。生き方というものは誰かの真似をするものではないし、育て方もきっとそうであろうから。その時の実力が、本物の実力を育ててゆく。未熟である、ビギナーであることを恐れてはいけません。知っていればよいことです。
今となった私は、幼い子どもを育ててゆくこれから大人になってゆくお母ちゃんたちに自分の姿を映しています。かつての私、どうしてよいかわからないままにやみくもに走っては転ぶの繰り返しだった自分、自分を支えてきた自分といつも共にあるように、今を生きるみくまのお母ちゃんたちといつも心を共に、共にお稽古をしていたいと願っています。
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みくま幼稚園だより 2014年11月号1
みくま幼稚園だより 2014年11月号2