相手があるやないか、よくそんなふうに怒られた気がします。
「相手がいるじゃないか、相手のある話だろ」と言われた場面を思い出してもよく思い出せません。ただ、自分の都合の良い解釈や、怒り心頭の自分に向けられた話であっても都合良く忘れてしまう私にとっては、けっこう心に残る言葉の一つであったように思います。
「いやいや、わかってますよ、相手の言い分はこうでしょう、私の言い分はこうだから見解がちがうのでしょう?」と言い返す私に、「相手がいるじゃないか」と注意した人は「ああ、この人はわかっていない」とあきらめ顔をしたものでした。それがあきらめ顔だったのか、怒りの顔だったのかわかりませんが、人としての成長がなければわからないんだこういうことは、というメッセージをその人は出していたようにも思います。今となっては、それは本当にあった事なのか、どこで誰に言われたかさだかではなく、私の物語の中でのことなのか、そんな気がするという思い込みかどうなのかわかりませんが、確かにいろいろな人がいろいろな言い方で、成長過程にあった当時の私にいろいろな人が「相手があることやないか」といさめたように思います。そして私は「なに言ってんだい、相手の言い分は理解できてるよ」とその言葉を文字の通りにしか知らずにおりました。
子どもを大きくする人生を卒業してから、私はしゃにむに探求をはじめました。体と心の勉強をはじめました。それは自分の感覚をみがく、目覚めさせる、一度も使わなかったかもしれない備わったもののすみずみにまで、意識を通わせ、神経がかよい、活力が通じる感触を通わせる作業で、様々なことをやりたいと思っていましたが何をやっていいかがわかりませんでした。
そんなある夜、なぜか棒がほしいと思った私は通販サイトで赤樫の棒を買い、家でふりまわして遊んでおりました。いい年をした大人が夜に棒を振り回す、なんだかおかしなことですが、なぜか無性に手に合った良い感触の棒が持ちたくて、何かに使いたくて棒と遊んでいたのでした。まもなく私はある人の紹介で、「感覚を磨きたければ、とても感性のするどい方がいる、一度お話をしてみたら知りたいことを知っているかもしれないし、勉強になるのではないですか」とお話をいただき、その方を訪ねていくこととなりました。
その人は武術の世界にいる方で、居合教室が終わる頃にひょっこりとやってきた私が「私は居合はやりません、剣術も武道もやりません、こんな私は何をしたらよいのでしょう」と唐突なことを訪ねると、たいへん愉快そうに私の顔を眺められて、「それはじょうです」と言われました。「じょうとは一体なんですか」と尋ねると、これです、と私が家でふりまわしているのとそっくりの棒を持ってこられました。「杖と書いてじょうと読みます、杖があなたによいでしょう」とその杖を私に渡されたのでした。
「じょうとは一体なんですか、じょうは私の手の延長ですか、それとも体とまったく別の道具ですか」と尋ねる私に先生はにこやかに「杖はあなたの仲間です、杖はあなたの相手です」と言われました。
一体この人は何を言っているんだ、と言葉の意味が汲み取れずにいた私は、「相手があるやないか」と言われた頃ときっと同じ心境、同じ姿であったと思います。そしてそんな私の姿と心境を、先生はよくご存知のことだったと思います。そんなことから、まずそこから、私と杖の付き合いが始まりました。
私はひょんなことから「杖(じょう)」という相手に出会い、「杖術(じょうじゅつ)」という世界に触れることになりました。そして根気よくお付き合いくださる先生から「杖」と「自分」の関係性、杖の動きとつきあい方を学ぶうち、様々いろんな出来事が私の身にもおこりました。それは日常生活でそれまでも起こってきた小さな出来事や、大事なこともありました。体で学んだ感覚が、だんだん日常の出来事のなかにもあるように感じられてくるのでした。そして、ある時に体の感覚で、「ああ、相手があるとはこういうことか」と知りました。それは言葉で説明しろと言われてもできにくく、根拠もない話のようでありましたが、確かに、ああ、自分は今ようやく知ったのだと感じたのでした。
杖の存在を意識していると、ある時、杖は羽のように軽くあり、またある時は私よりも重くなり、どこかへ行こうとしたり、戻ってこようとしたりしました。杖は私との関係性のなかで私とその重さや軽さ、方向方角を分け合います。私が杖を忘れてしまうと、私は一人ぼっちになりました。杖が私を忘れてしまうと杖は一人ぼっちになりました。「相手と言うのはこういうものか、仲間と言うのはこういうものか」知ってはいたけどどこかわかっていなかった私には、とても鮮明で衝撃的なことでした。思考と体がつながって、心身で「相手」というものを理解出来たと感じた瞬間でした。
子どもは体験を通じて学びます。子どもは実際の体験、ぬくもりや冷たさや、感じることでものごとを理解してゆきます。感じる事で、わけがわかってゆくのです。頭だけの知識ではなく、体と心を通じて、相手の中で育ち合う子ども達の姿を私は長年みてきたし、それは実際に自分と子どもが共に体験をして学んできた事でした。
そんな私が「相手がある」ということを頭だけでなく、体から感じてはっきりと意識をして、学んできた事をほんとうに理解するということをしたのでした。
「先生、杖をやって、初めて相手があるということがわかりました。相手があるというのはこういうことか、生まれて初めてわかりました」そう言った私を先生は、相変わらずにこやかにその姿を認めてくださいました。
最初の出会いのときに、杖はあなたの仲間です、あなたの相手です、私という相手に伝えた先生のメッセージを、ようやく、やっと、私がわかったのです。
「相手」という言葉には3つの意味があります。いっしょになって物事を行う者、対象とする者、対抗して勝負を競う者、そして私たち人間は関係性のなかで互いを映し合うのです。
私たちは自分で自分の姿がみえません。自分の姿は自分がいちばんわからないでいるものです。私たちは相手に自分を映します。相手と言う鏡に映った自分をみて自分をなぞっていくのです。
杖というもの言わぬ相手と組んで、杖は自分の中にあり、自分は杖のなかにあり、互いは心と体のように表裏一体で同一のもの、それらをわけあう相対のもの、それが少し体感できたように感じます。それは相手があることを知るための探求の旅のように思います。
海賊船の中のようなところで子どもを産んで、育ててきて、ただただ必死で子どもを育てて生き延びてきた。その道中で、あんなに子どもという相手と、互いを相手として存分につき合ってきた、向き合ってきた、育ち合ってきた事を今、感謝とともに思い起こします。子育てをするまでも、なんと多くの相手が私を許し、認め、受け入れてきたことでしょう、その積み重ねがあったからこそ、今の学びのなかで、体に入ってくる杖の感覚というものが、今までの人生の体験を「相手がある」という言葉でつなぐのでしょう。つないで、つながってゆくことで、人としての成長へと導いてゆくのでしょう。
「いかなる時も杖と私」、それはいかなる時も相手と私、相手はずっとそこにいる。
そのことにようやく気がついた「相手の話」
これは相手というものと出会った私の、ちょっととりとめのないお話です。
〜石田泰史先生に感謝をこめて〜