カテゴリー別アーカイブ: みくま通信平成27年度

みくま通信 12月号

「花さき山の話」

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「花さき山」という絵本があります。地味な本で、みくま幼稚園の図書室にも長い間置いてあります。切り絵でできた美しい絵本なのですが、子どもが飛びつくような楽しそうで胸踊るといった印象の表紙でもありませんから、なかなか借り手もつきません。私の母が園長だった頃、母はこの本が好きで機会があれば保護者や子ども達によく読んでいました。

当時は事務所の職員として川崎さんという年配の女性が勤めていました。温厚なその人柄から保護者や子ども達、職員にもとても慕われていました。冬休みには川崎さんのご夫婦が毎年のように職員を連れてスキー旅行にいきました。その頃は、みくま幼稚園が通園バスを持たず徒歩通園だけだった時代で、千里ニュータウンの老化に伴い西町の子どもが激減していました。通園バスを持てば一つの小学校区に一つの私立幼稚園の均衡が崩れます。といってこのままでは経営が破綻する。オイルショック以降の時代の過度期がやってきて、みくま幼稚園もクラス数が減少、2階の保育室は戸締めになり、何かひっそりと寂しい影が幼稚園に住み着いていました。通園バスを持とうと決断した母は、事務所の川崎さんとたった二人で幼稚園のパンフレットを配りにまわります。マンションの説明会場や管理組合、様々な所にみくま幼稚園が通園バスを出して子ども達を送迎することを伝えにいったそうです。当時は幼い子どもがバスに乗って遠くの私学に行くことに抵抗を感じる保護者が多い時代でした。保育年数は1年保育、2年保育が主流です。3年保育の子どもはほとんどいない時代でもありました。経営する者にとってはいつの頃も四季があります。冬の季節がやってきた時、たった一人で大きな決断を迫られることがあります。そんな時、事務所に座る川崎さんは親身な相談相手でもあり、心を温めてもらえる相手でもあったのでしょう。

 

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川崎さんが病気で亡くなった時、母は全職員に「花さき山」の絵本を贈りました。表紙をめくるとそこに川崎さんへの思いの手紙が添えられていました。

 

一つ親切にすれば一つ花が咲く。やさしい心でやさしい小さな花が咲く。その一つ一つが集まって美しい花を咲かせている花さき山、迷い込んでしまった女の子「あや」はやまんばに出会い、花さき山の由来を聴きます。しかし村に戻れば大人達からはそんな場所はあるわけない、狐に化かされたんだと笑われます。再びその場を訪ねようとしても、もう二度とその花さき山へ行くことはできませんでした、そんなお話です。苦しくても楽しくても、今日という日が二度とは来ない私たちの人生の中で、ともすれば忘れられてゆく他者への小さな願いや思いやり、やさしい気持ちが花になって咲いている。物語は最後に「けれどもあやは、そのあと、時々『あ!今花さき山で、おらの花が咲いてるな』って思うことがあった。」そう綴られています。

 

この幼稚園に勤めて以来、私はたくさんの人のやさしい気持ちに出会ってきました。我が子以外の子どもへの思いやり、自分以外の人間のための苦労、人知れず、黙って静かに施されてきた優しさの数々に触れることができました。今を生きる子育て中のお母さん達も、時々思い起こしてください。たくさんの花がきっと花さき山に今揺れているでしょう。

 

みくま幼稚園の運動場には3つのお家が立っています。そのいちばん小さなお家が「トキちゃんハウス」です。お葬式の後、川崎トキ子さんを忍んで建てられたお家です。めぐる季節の中でひっそりと園庭の花や木の下で、子ども達を優しく見守っています。

みくま通信 11月号

 

「大きな歯車を小さな力でゆっくり満たして回してゆく話」

 

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50年ほど昔、母に連れて行かれた小児科で、母は先生に「お子さんは滲出性体質(しんしゅつせいたいしつ)かもしれません。」と言われました。外部刺激に対して異常に敏感で滲出性反応をおこす体質で、乳児、幼児に多く、小さな傷でもリンパ節が腫れやすく、下痢、喘息性気管支炎などの症状が出る体質らしいのですが、半分は当てはまり、半分は当てはまらず、診断が本当かどうか確かめられないまま大きくなり、年を経るに従って何かと自分で対処できることも増えて、自分の体質に振り回されることも減り、十代が終わる頃には「小さい時には手のかかった子」として落ち着いてしまいました。

 

母親は大変だったろうと思い起こすのは、化学繊維のぬいぐるみを抱いては湿疹が出て、毛糸のセーターを着ては首元が腫れ、急に足の指先の皮がむけてきたり、夏には謎の発疹が出たり、冬にはお尻や太ももが真っ赤に腫れあがるようなじんましんが出たりと、とにかくどこかに何かしらの不調があっていそがしく、これと言う原因もわからず、当時は子育ても幼稚園の事業も必死であった母親でしたが、必死で余裕のないこうした母親が相談にゆくと言われる助言は今も昔も残念ながら「お母さんが無理をすると子どももしんどくなりますよ。」というものではないでしょうか。原因は「愛情不足」、暗にそういうことを言われ続けた母のことを思うと大変申し訳なく気の毒に感じます。当時の母も、きっと自分の無理は十分わかっていたのだろうと思うからです。

 

あの頃、まだ若かった母が仕事も家事も必死でやりくりする状態で、夕飯時には母がいないこともありましたし、手のかかる私に疲れた母が不機嫌に怒ると「別に私が働いてくれって頼んだわけじゃないのになあ。」と不満を感じたものですが、なんだかんだと小さな出来事こそあれ大事には至らず、親子にはすったもんだはありましたが、私は両親に守られて、将来は親元を離れて独立できるようあたたかく家庭教育を施され、手をかけて育てられた幸せな子どもでしたし、母は母なりのやり方で子育てを一生懸命していたと今こそ実感しています。

 

40歳を過ぎた頃、私は仕事も子育てもできかねていました。とにかく毎日は無情に、矢のように早く過ぎて、明日こそは生活を立て直そうと夜には決心するのに、結局次の日もあわただしくやってきてあっという間に夜になってしまうの繰り返しでした。そんなある日、私は息子の小学校の担任に懇談を申し込まれ出かけてゆきました。いわゆる「呼び出し」です。息子が集団生活では手に余る子どもであったのは私にもわかっていましたし、その年も、その前の年も、忘れ物だらけで宿題もやらないままであったのはじゅうじゅうに知っていました。ああ、また今年も担任に親子で一方的に説教されるのかと出かけて行った私に、その先生は毎日の生活の様子をたずね、なかば投げやりになっている私の話に根気よく耳を傾けてくれました。そして私の話が終わると「よくわかりました。とにかく毎朝出勤前にお子さんの健康状態だけを見てやってください。友達にうつすような病気や、大きな病気の兆候だけを見逃さないように毎日の体調をみて、健康であればお子さんを登校させてください。それだけで今は結構です。」とだけ言いました。意外そうに先生の顔を見つめている私に先生は続けました。

自分は生活に追われた状況で子育てをして子供を学校へ通わせるお母さん達にたくさん出会ってきましたから今のお子さんに必要なことがわかります。まず健康で毎日学校へくることです。お子さんには学校が必要です。それだけを今のあなたが助けてくれたら、やがてあなたに色々なことを建て直す体力がついてきます。そうなれば生活が回り始めます。あなたのような状況の母親に、自分の子供に人並みのことをしてやったらどうなんだと説法めいたことを言ってもなんにもなりません。最優先のことだけお伝えしましたからそれをやってください。学校へ来たらお子さんは担任の自分が引き受けます。先生は穏やかな口調でしたが、私の目を見つめてそう言いました。教室に入った時の夕闇はもうすっかり夜の闇になっていました。

 

その先生との出会いから、その先生の言葉を聞いてから、長い時間をかけて私は少しずつ生活を立て直してゆくことができるようになりました。大きな歯車を力一杯動かそうと四苦八苦していたのに、ただそれだけのことを心に留めるだけで小さな歯車が回り始め、やがてその小さな力が全体に行き渡り始めたのです。

 

子どもが小さい頃、自分が病気になったり、仕事との両立に悩んだり、子どもの発育や発達に振り回されたり、母親の心は千々に乱れるものです、乱れることに体力を消耗し、消耗したことが原因だと責められたりもするものです。どこかで生活を建て直してゆかなければ、自分が建て直しさえできればこの問題は解決して行けるのに、そう考えても一向に状況は変わらず、どんどん悪化してゆくことに目を向けず、逃げ出してしまうこともあります。そんな時は誰かにバッサリと整理をしてもらって、あれもできない、これもできないとサジを投げ始めている自分に、まず一つだけ最優先事項の小さなことからやりましょうと背中を押してくれる人が必要です。多くを望む前に、不安に押しつぶされそうになる前に、疲れ果ててサジを投げそうになる前に、自分を建て直して行くために。子育てでは「どうしてそうなったのか」を知ることも大事ですが、「どうしてゆくのか」が大事な時があります。「じゃあ、具体的にどうするか」みくま幼稚園をそうしたことを一緒に考える場所にしたい、幼稚園の運営をする中で、それも私の希望の一つになりました。

 

あの先生と話をしてから8年あまりすぎて私の息子は家から無事に巣立って行きました。今も達者に一人暮らしをしています。8年といえば長いけれど、正月が8回だけだったといえば短い時間だったのです。今の私に比べれば当時のあの先生は随分若い年齢でした。就業時間をすぎても私の事情をききたいと懇談のためにだけ夕闇の教室の中で私を待っていてくれたあの先生の姿を色あせることなく思い出すことができます。

今、ようやくこうして振り返ることができるようになり、感謝の気持ちいっぱいに思い出します。

 

みくま通信 9月号

「進路の話」〜父との相談の思い出〜

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集団生活が苦手だった私にとって、大阪への転居と同時に始まった小学校生活は苦難苦渋の連続で、良い思い出がありません。中学校へ行っても学校への失望は続き、やがてこんな生活があと何年も続くことは耐えられない、自分の人生が無駄になってしまうと考えるようになっていました。中学3年生になった頃、母にどの高校に行くのかと聞かれ、「高校へは行きません。中学で卒業します。」とこたえたのでした。学校へは毎日通っていましたが、自分の求めるものを見つけることができずにいたのでした。

私の小学校入学と同時に単身赴任になった父は、週末に帰宅すると日曜日の朝に私と犬の散歩にでかけたものでした。散歩の最中に特別な話も白熱した議論もありません。犬の様子や草木の様子、池の魚や虫の様子、同じものを眺めながら二人でいろいろな話をしたのでした。しかし、中学生になり思春期になった私は父との距離を取るようになり、その二人だけの散歩の機会は減って行きました。

 

その父が、母との進路の話をした翌日、平日の水曜日にも関わらず東京から急ぎ帰って来ました。父は私を呼ぶとおだやかに、「お前は中学校でやめるのかい?」と尋ねてきました。「うん、もういけない。」「どうして高校へ行かないのかい?」私には熱中できるものがあると思うけれど、学校生活を続けていても見つけることができないと感じていました。私が学びたいことは机の上のことでなく、もっと違うことなのだ、このままではずっと手に入れられない、私は自分が打ち込めるものを探すために学校で浪費している時間を有効に活用したい、そんなことを父に伝えたように思います。父はにこにこして「しほこなぁ」と私の名を呼びました。父はよい考えが浮かぶと、いつもそうして私に声を掛け、自分の提案を聞かせたものでした。

「しほこなぁ、お前、中学校の卒業と高校の中退との違いを知っているか?」

「知らない」

父は「明日から、今のお前がまったく受験勉強をしないでも入れる高校は日本のどこかにあるはずだから昼間の高校でも夜間の高校でもいい、その学校を見つけてきなさい。」と言いました。その学校を見つけたらお前は受験をしなさい。合格したらお父さんが入学金も授業料もお金は全部払ってあげます。合格して入学通知がきたら、もうお前は行かなくていい、入学式にも出席しなくていい。だってもうお前は高校に入ったことなんだから。父は独自の持論を展開しました。

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「入った高校が面白そうなら通えばいいし、つまらなければ退学をすればいい。どうせ卒業する気がないなら、お前の思う通りにしてみたらいい、やってみなさい。

お前はお父さんの子どもだから、困ったら必ずお父さんが助けてやる。お父さんが必ず必ず助けて支えてやる。」

父は犬の散歩の時の幼い私とのやりとりの、あの同じおだやかな口調で私に話をしたのでした。やりたいことを探すなら、学校という場所の方が多くの人に出会え、たくさんのきっかけにも恵まれる。そこがダメなら違う場所へまた行けばいい。父の一つひとつの言葉は、私の胸で新鮮に響きました。それまではそんな考えがあることを教えてくれる大人は誰もいませんでした。

実は、父の提案は私がどこかで望んでいたものでした。私はやはり学校に自分の居場所や仲間、将来の可能性を求め探していた子どもだったのです。そうして私は高校で美術部の先生に出会います。平日は学校で働いで美術を教え、休日には旅をして、画業を営んでいる芸大出身の先生でした。先生との出会いにより、高校にすら行く気のなかった私は芸大受験を考えるようになりました。やがて、ものをつくることから自分の発想を現実化してゆくことに喜びを見出すようになります。そして自分の生涯をかけての職を考えた時、「自分なら、あの時の自分のような子どもがやりがいを持って通える学校が実現できるのではなかろうか。」そう考えるようになり、体験が教科書である体と心の学校をつくりたいと志すようになっていきました。
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私が大学受験を考えながら高校生活を過ごしていたある日のことでした。

日曜日に帰ってきた父が朝食の後で、「しほこなぁ」と私を呼びました。

「お前、高校卒業と大学中退の違いを知ってるか?」
「うん、知ってるよ。」笑った私に「そうか。」と父は愉快にこたえました。

 

相談で解決できることは少ないかもしれない、でも相談で道が開けることがある。これしかないと思いつめて不安に固まっていた肩をぽんとたたかれて、振り向いてみるとなんだ他にもあるじゃないかと気が付いた新たな道を発見できることがあります。行き止まりだと思い込んでいた道行は実は大きな曲がり角で、その先に
思いもよらなかった道が続いていることがあったりします。
進みたい方角があるのなら、その方角へ進んで行こう、どれが近道かはわからないけれど、誰も通ったことがない道であっても、それが回り道であったとしても、どこかに日が差しているからそれを探って行くんだよ。相談とはその手伝いをすることだ。父との思い出はそう教えています。

子育てに一段落した私ですが、今も自分の進路に迷います。
暗闇が迫る気がしてきます。そんな時、父と相談した日のことをいつも思い出してみるのです。同じ思いで様々にやってくる保護者の前にすわる時、私が大切にしている思い出です。

 

みくま通信  28年度 4月号

 

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「みくまライフが始まります」〜船とせんべいと得手不得手〜

いまのお母ちゃんはえらいな、いつもしみじみ感じています。

いまは子育ては孤育てなどと言われる時代です。生まれて初めて子どもを産む人がマンションの一室で子どもと差し向かいで子育てをして、自分の力で人とつながって、情報を得て、幼稚園までの3年、4年を頑張り抜いて入園を迎える。
子どものためになりますように、子どものためでありますように、そう願いながら幼稚園の船がやってくる港に親子でたどりつく。そのお母ちゃんたち、子どもたちをのせて桜の頃にみくま号は船出します。一年間の航海にでるのです。
春夏秋冬の季節を超えての船旅が始まります。

私は、できないことを嘆くより、できることを実感してゆけるようものごとを考えます。それは苦手なことを多かった私のような子どもにとって、苦手なことを特訓で克服するというのはたいへん無理な話だと実感してきたからでしょう。大人が私の不得手ばかりに執着する、それがわずらわしいと感じていた子どもでした。

苦手のひとつにせんべいがありました。食べる「煎餅」です。
これは学校以外の場所での苦手です。
あなたは小さい頃から「うるさい」とよく言った、親にそう言われたことがあります。音がうるさい、と訴えるわけです。家の中の掃除機の音や、洗濯機の脱水の音、水洗便所の流水音が苦手でした。とくに、せんべいやおかきを食べている人はみているだけで恐ろしくなったものでした。離れて座っている私にも噛み砕く音が聞こえて来る。あんなものを噛み砕いたら、きっとダイレクトに鼓膜にひどい振動があるだろうし、自分以外の人間にもきこえるほどの音が自分の口の中でおこるのだと思うだけで食べられず、せんべいぎらいの子どもでありました。

私がそれを克服したのは20歳の時です。ある日徹夜で染色をしていた時、(私は大学で染織専攻だったので)皆の食料が尽き、仲間が持っている食物はせんべいだけでした。一袋のせんべいを皆で均等にわけました。お腹が空いていたし、仲間に申し訳ないと思った私は、自分に向き合いました。私はもう小さな子どもではないのだと言い聞かせたのです。
「食べても鼓膜が破れるわけでないし、脳が損傷を受ける訳ではない、皆が食べているなら同じ構造の体を持つ私にも食べることは可能なのだ。」私はじっと考えて口に入れ、自分がせんべいをかみくだく音を自分の耳でじっとききました。なにも起こりませんでした。こうして私はせんべいを噛み砕く音が鼓膜に響くことを楽しめるようになり、せんべいが好きになりました。自分が少し大人になった気がしたものです。

人間には得手不得手(えてふえて)というものがあります。長所、短所があります。親であれば、子どもの苦手ははげまして、親身に助けてやるのがよいと私は思います。でもそれ以上に、子どもの得意を認めて尊重してやって、「得手が伸びれば不得手がついてくる」そんな気持ちで子どもの不得手に付き合ってほしいと願います。

親はいつの時代も子どもの将来を案じるもの、子どものためだと言ってはいても、親は自分が安心したいがための苦手つぶしをする気持ちと向き合わねばなりません。私がせんべいぎらいを克服できたのは、私が成長するまでの長い体験を蓄積する時間があったからだと感じます。子どもが自力で解決できるほどに実力をつけてゆくまでの長い時間、つきあう覚悟をしなければならないこともあるものです。

みくま幼稚園に子どもたちがやってきて、みくまライフが始まります。得手不得手をもちあう仲間とこれから作っていくのです。今度はお母さんとは違う相手と自分の世界をつくってゆく、家に帰ればお母さんとその世界を分かち合う、そんな生活がはじまります。生まれて初めて子育てをしているお母ちゃんに愛されて、求められて、認めてもらってきた子どもたちが、仲間とつくってゆく時間が始まります。

今年度新学期はとてもおだやかな船出であったと感じます。みくまの仲間と、みくまライフが始まります。