みくま通信 9月号

「進路の話」〜父との相談の思い出〜

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集団生活が苦手だった私にとって、大阪への転居と同時に始まった小学校生活は苦難苦渋の連続で、良い思い出がありません。中学校へ行っても学校への失望は続き、やがてこんな生活があと何年も続くことは耐えられない、自分の人生が無駄になってしまうと考えるようになっていました。中学3年生になった頃、母にどの高校に行くのかと聞かれ、「高校へは行きません。中学で卒業します。」とこたえたのでした。学校へは毎日通っていましたが、自分の求めるものを見つけることができずにいたのでした。

私の小学校入学と同時に単身赴任になった父は、週末に帰宅すると日曜日の朝に私と犬の散歩にでかけたものでした。散歩の最中に特別な話も白熱した議論もありません。犬の様子や草木の様子、池の魚や虫の様子、同じものを眺めながら二人でいろいろな話をしたのでした。しかし、中学生になり思春期になった私は父との距離を取るようになり、その二人だけの散歩の機会は減って行きました。

 

その父が、母との進路の話をした翌日、平日の水曜日にも関わらず東京から急ぎ帰って来ました。父は私を呼ぶとおだやかに、「お前は中学校でやめるのかい?」と尋ねてきました。「うん、もういけない。」「どうして高校へ行かないのかい?」私には熱中できるものがあると思うけれど、学校生活を続けていても見つけることができないと感じていました。私が学びたいことは机の上のことでなく、もっと違うことなのだ、このままではずっと手に入れられない、私は自分が打ち込めるものを探すために学校で浪費している時間を有効に活用したい、そんなことを父に伝えたように思います。父はにこにこして「しほこなぁ」と私の名を呼びました。父はよい考えが浮かぶと、いつもそうして私に声を掛け、自分の提案を聞かせたものでした。

「しほこなぁ、お前、中学校の卒業と高校の中退との違いを知っているか?」

「知らない」

父は「明日から、今のお前がまったく受験勉強をしないでも入れる高校は日本のどこかにあるはずだから昼間の高校でも夜間の高校でもいい、その学校を見つけてきなさい。」と言いました。その学校を見つけたらお前は受験をしなさい。合格したらお父さんが入学金も授業料もお金は全部払ってあげます。合格して入学通知がきたら、もうお前は行かなくていい、入学式にも出席しなくていい。だってもうお前は高校に入ったことなんだから。父は独自の持論を展開しました。

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「入った高校が面白そうなら通えばいいし、つまらなければ退学をすればいい。どうせ卒業する気がないなら、お前の思う通りにしてみたらいい、やってみなさい。

お前はお父さんの子どもだから、困ったら必ずお父さんが助けてやる。お父さんが必ず必ず助けて支えてやる。」

父は犬の散歩の時の幼い私とのやりとりの、あの同じおだやかな口調で私に話をしたのでした。やりたいことを探すなら、学校という場所の方が多くの人に出会え、たくさんのきっかけにも恵まれる。そこがダメなら違う場所へまた行けばいい。父の一つひとつの言葉は、私の胸で新鮮に響きました。それまではそんな考えがあることを教えてくれる大人は誰もいませんでした。

実は、父の提案は私がどこかで望んでいたものでした。私はやはり学校に自分の居場所や仲間、将来の可能性を求め探していた子どもだったのです。そうして私は高校で美術部の先生に出会います。平日は学校で働いで美術を教え、休日には旅をして、画業を営んでいる芸大出身の先生でした。先生との出会いにより、高校にすら行く気のなかった私は芸大受験を考えるようになりました。やがて、ものをつくることから自分の発想を現実化してゆくことに喜びを見出すようになります。そして自分の生涯をかけての職を考えた時、「自分なら、あの時の自分のような子どもがやりがいを持って通える学校が実現できるのではなかろうか。」そう考えるようになり、体験が教科書である体と心の学校をつくりたいと志すようになっていきました。
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私が大学受験を考えながら高校生活を過ごしていたある日のことでした。

日曜日に帰ってきた父が朝食の後で、「しほこなぁ」と私を呼びました。

「お前、高校卒業と大学中退の違いを知ってるか?」
「うん、知ってるよ。」笑った私に「そうか。」と父は愉快にこたえました。

 

相談で解決できることは少ないかもしれない、でも相談で道が開けることがある。これしかないと思いつめて不安に固まっていた肩をぽんとたたかれて、振り向いてみるとなんだ他にもあるじゃないかと気が付いた新たな道を発見できることがあります。行き止まりだと思い込んでいた道行は実は大きな曲がり角で、その先に
思いもよらなかった道が続いていることがあったりします。
進みたい方角があるのなら、その方角へ進んで行こう、どれが近道かはわからないけれど、誰も通ったことがない道であっても、それが回り道であったとしても、どこかに日が差しているからそれを探って行くんだよ。相談とはその手伝いをすることだ。父との思い出はそう教えています。

子育てに一段落した私ですが、今も自分の進路に迷います。
暗闇が迫る気がしてきます。そんな時、父と相談した日のことをいつも思い出してみるのです。同じ思いで様々にやってくる保護者の前にすわる時、私が大切にしている思い出です。

 

みくま通信  28年度 4月号

 

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「みくまライフが始まります」〜船とせんべいと得手不得手〜

いまのお母ちゃんはえらいな、いつもしみじみ感じています。

いまは子育ては孤育てなどと言われる時代です。生まれて初めて子どもを産む人がマンションの一室で子どもと差し向かいで子育てをして、自分の力で人とつながって、情報を得て、幼稚園までの3年、4年を頑張り抜いて入園を迎える。
子どものためになりますように、子どものためでありますように、そう願いながら幼稚園の船がやってくる港に親子でたどりつく。そのお母ちゃんたち、子どもたちをのせて桜の頃にみくま号は船出します。一年間の航海にでるのです。
春夏秋冬の季節を超えての船旅が始まります。

私は、できないことを嘆くより、できることを実感してゆけるようものごとを考えます。それは苦手なことを多かった私のような子どもにとって、苦手なことを特訓で克服するというのはたいへん無理な話だと実感してきたからでしょう。大人が私の不得手ばかりに執着する、それがわずらわしいと感じていた子どもでした。

苦手のひとつにせんべいがありました。食べる「煎餅」です。
これは学校以外の場所での苦手です。
あなたは小さい頃から「うるさい」とよく言った、親にそう言われたことがあります。音がうるさい、と訴えるわけです。家の中の掃除機の音や、洗濯機の脱水の音、水洗便所の流水音が苦手でした。とくに、せんべいやおかきを食べている人はみているだけで恐ろしくなったものでした。離れて座っている私にも噛み砕く音が聞こえて来る。あんなものを噛み砕いたら、きっとダイレクトに鼓膜にひどい振動があるだろうし、自分以外の人間にもきこえるほどの音が自分の口の中でおこるのだと思うだけで食べられず、せんべいぎらいの子どもでありました。

私がそれを克服したのは20歳の時です。ある日徹夜で染色をしていた時、(私は大学で染織専攻だったので)皆の食料が尽き、仲間が持っている食物はせんべいだけでした。一袋のせんべいを皆で均等にわけました。お腹が空いていたし、仲間に申し訳ないと思った私は、自分に向き合いました。私はもう小さな子どもではないのだと言い聞かせたのです。
「食べても鼓膜が破れるわけでないし、脳が損傷を受ける訳ではない、皆が食べているなら同じ構造の体を持つ私にも食べることは可能なのだ。」私はじっと考えて口に入れ、自分がせんべいをかみくだく音を自分の耳でじっとききました。なにも起こりませんでした。こうして私はせんべいを噛み砕く音が鼓膜に響くことを楽しめるようになり、せんべいが好きになりました。自分が少し大人になった気がしたものです。

人間には得手不得手(えてふえて)というものがあります。長所、短所があります。親であれば、子どもの苦手ははげまして、親身に助けてやるのがよいと私は思います。でもそれ以上に、子どもの得意を認めて尊重してやって、「得手が伸びれば不得手がついてくる」そんな気持ちで子どもの不得手に付き合ってほしいと願います。

親はいつの時代も子どもの将来を案じるもの、子どものためだと言ってはいても、親は自分が安心したいがための苦手つぶしをする気持ちと向き合わねばなりません。私がせんべいぎらいを克服できたのは、私が成長するまでの長い体験を蓄積する時間があったからだと感じます。子どもが自力で解決できるほどに実力をつけてゆくまでの長い時間、つきあう覚悟をしなければならないこともあるものです。

みくま幼稚園に子どもたちがやってきて、みくまライフが始まります。得手不得手をもちあう仲間とこれから作っていくのです。今度はお母さんとは違う相手と自分の世界をつくってゆく、家に帰ればお母さんとその世界を分かち合う、そんな生活がはじまります。生まれて初めて子育てをしているお母ちゃんに愛されて、求められて、認めてもらってきた子どもたちが、仲間とつくってゆく時間が始まります。

今年度新学期はとてもおだやかな船出であったと感じます。みくまの仲間と、みくまライフが始まります。